日本酒の「生酛」と「山廃」:微生物たちの熱いドラマ
更新日:10月7日
日本酒のラベルでよく見かける「生酛」や「山廃」という言葉。これらは、なんとなくコクがあって美味しい気がするけれど、具体的に何が違うのか疑問に思ったことはありませんか?今回は、専門用語を極力減らし、「酵母の特訓キャンプ」という例えを使って、お酒の味が決まるまでの微生物たちの熱いドラマをお届けします。
酒母(しゅぼ)ってそもそも何?
酒母は「酵母の特訓キャンプ」
「酒母(しゅぼ)」とは、別名「酛(もと)」とも呼ばれる、日本酒の「お母さん」となる液体のことです。一言で表すなら、「アルコールを造る微生物(酵母)を、安全な場所で大量に増やすための特訓キャンプ」です。
いきなり巨大なタンクに水とお米を入れてしまうと、空気中のバイ菌が入り込んでお酒が腐ってしまいます。そのため、まずは小さなタンクに強い「酸」のバリアを張り、バイ菌を全滅させてから、酸に強い酵母だけを安全に大繁殖させる工程が必要なのです。
アルコール度数20%の秘密
ワインなどはブドウの皮に付いた菌で自然発酵しますが、日本酒が世界でも類を見ないほど高いアルコール度数(20度近く)まで到達できるのは、この「酒母」という緻密な準備段階を踏んで、酵母を極限まで鍛え上げているからだと推測されます。
酒造りの要
酒造りのリーダーである杜氏たちの間には「一麹、二酛(酒母)、三造り」という格言があります。酒母の出来栄えが、最終的なお酒の品質の大部分を決定づけると言っても過言ではありません。
3つの特訓キャンプ(速醸・生酛・山廃)の違い
酒母の造り方には、大きく分けて「速醸(そくじょう)」「生酛(きもと)」「山廃(やまはい)」の3種類があります。違いのポイントは、バイ菌から酵母を守るための「バリア(乳酸)の用意の仕方」と、「お米の溶かし方」です。
製法の比較表
| 種類 | バリア(乳酸)の用意 | お米の溶かし方 | 完成までの時間 |
|--------|------------------------------|------------------------------|----------------|
| 速醸 | 液体を買ってきて入れる | 自然に溶けるのを待つ | 約2週間(早い) |
| 生酛 | 空気中から自然の菌を呼ぶ | 人間が棒ですりつぶす(山卸) | 約4週間(遅い) |
| 山廃 | 空気中から自然の菌を呼ぶ | 酵素の力で自然に溶かす | 約4週間(遅い) |
※「山廃」は、過酷な重労働であるお米をすりつぶす作業(山卸)を「廃止」したものです。
味に生まれる奥深さ
工場で作られたバリアを使う速醸と違い、空気中の菌を呼ぶ生酛・山廃は2倍の時間がかかります。その長い期間に様々な自然の微生物が入り込んで影響を与えるため、お酒の味に「奥深さ」や「複雑な旨味(コク)」が生まれると考えられます。一般的に、生酛はしっかりすりつぶすため「引き締まったきれいな酸」が、山廃は時間をかけて溶かすため「野性的で濃厚な旨味」が出やすいと推測されますが、これは蔵の技術によっても変わるため、すべての銘柄に当てはまるわけではありません。
ペアリングの法則
フルーティーでスッキリとした「速醸」は、冷やしてワイングラスで飲むのに適しています。対して、濃厚な旨味と酸味を持つ「生酛・山廃」は、お肉料理やバターを使った洋食にとてもよく合います。特に「お燗(温め)」にすると、隠れていた旨味が爆発的に広がり、真価を発揮すると思います。
「乳酸」と「乳酸菌」の決定的な違い
名前は似ていますが、お酒造りにおいてこの2つは「バリアそのもの」か「バリアを作る職人」かという決定的な違いがあります。
成分 vs 生き物
「乳酸」は酸っぱい液体(成分)であり、買ってきた防護壁のようなものです。タンクに入れた瞬間にバリアが完成します(速醸で使用)。一方、「乳酸菌」は目に見えない生き物(微生物)であり、防護壁を作ってくれる大工さんです。タンクの中でエサを食べて、約2週間かけて自らの体から乳酸を生み出します(生酛・山廃で使用)。
旨味の正体とテロワール
生酛や山廃が「コクがある」と言われるのは、バリアを作ってくれた乳酸菌や、陣取り合戦で敗れた他の微生物たちの「死骸」がアミノ酸(旨味成分)に変わり、お酒に溶け込んでいるからだと推測されます。また、酒蔵の壁や天井に昔から住み着く自然の菌(蔵付き乳酸菌)が入り込むことで、人工的に育てた菌を使うよりも、その蔵にしか出せない独自の風味(テロワール)が強く表れるのではないかと考えられています。
引き算と足し算の美学
余計な微生物がいないクリーンな環境で造る速醸は「引き算の美学」であり、お米の綺麗な甘みを楽しめます。一方、様々な微生物が残したアミノ酸がたっぷり含まれる生酛・山廃は「足し算の美学」です。どちらも素晴らしい個性を持っています。
陰のヒーロー「硝酸還元菌」
生酛や山廃の「特訓キャンプ」がスタートした直後は、まだ乳酸のバリアがありません。この無防備で危険な期間を救うのが、硝酸還元菌(しょうさんかんげんきん)です。
自己犠牲のリレー
乳酸菌がまだ弱い初期段階で、硝酸還元菌は水に含まれる成分を食べて「亜硝酸(あしょうさん)」という毒ガスのようなバリアを発生させます。これにより、バイ菌や野生の酵母は全滅します。その後、安全になった環境で乳酸菌が育ち、強い酸を出し始めると、硝酸還元菌はその酸に耐えられず、自ら死滅して姿を消していくのです。
彼らがいなかったら?
もし最初から硝酸還元菌が活動せず、亜硝酸のバリアを作ってくれなかったら、乳酸菌が育つ前にバイ菌が大繁殖してしまい、お酒にはならず、ただの腐ったドロドロの液体になってしまうと推測されます。
命がけのドラマ
最終的な日本酒の液体の中に、彼らが生きている状態で見つかることはありません。しかし、彼らが命がけで守ったからこそ、複雑で美味しいお酒が生まれます。この微生物たちの見事なリレーには、本当に感動を覚えます。
現代の生酛・山廃事情
乳酸菌の2つの集め方
現代の生酛・山廃における「乳酸菌(生き物)」の集め方には、2つのパターンがあります。
タンクのフタを開けて、空気中から自然の菌が落ちてくるのを待つ(昔ながらのスタイル)。
研究所で培養された純粋な乳酸菌を買ってきて、直接タンクに入れる(現代の安全スタイル)。
実は現代の酒蔵の多くは、2の「直で入れる」方法を採用しています。液体(乳酸)ではなく、生き物(乳酸菌)を入れていれば、ルール上「生酛・山廃」と名乗ることができます。
なぜ直で入れる蔵が多いのか
自然に落ちてくるのを待つのは運任せであり、悪いバイ菌が先に入るとお酒が丸ごと腐ってしまう(腐造)リスクがあります。経営を安定させるため、確実にバリアを作ってくれる菌を直接入れるのだと推測されます。また、地球温暖化で冬の気温が高くなったり、蔵が清潔になりすぎたりして、昔のように都合よく自然の菌が落ちてこないという環境の変化も影響していると考えられます。
どちらも立派な生酛・山廃
「直で入れるなら速醸と変わらないのでは?」と思うかもしれません。しかし、直に入れたとしても、彼らが約2週間かけて生き抜き、サバイバルリレーを行う過程は同じです。そのため、特有の深いコクや旨味はしっかりと宿ると私は思います。最近では、あえてリスクを取って1の自然の菌だけで造ることをアピールする酒蔵も増えています。お店で「これは蔵付きの自然の菌ですか?」と尋ねてみるのも、非常にマニアックで面白い楽しみ方ですね!
まとめ
いかがでしたか?ラベルに「生酛」「山廃」という文字を見つけたら、ぜひグラスの中で繰り広げられた微生物たちの命がけのサバイバルドラマに想いを馳せてみてください。
SAKENOMICS LABでは、これからも日本酒のディープな世界をわかりやすく解説していきます。今夜の一杯が、さらに美味しくなりますように!





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